当たり前なことは何度も考えません。当たり前だからただ受け入れるだけです。そのことに疑問を持ってみましょう。
つまり、当たり前のことでも何度も考えてみる。
「私は私である」
これはあまりにも当たり前なため、ほとんど誰も疑うなんてことはしないでしょう。
それを疑ってみるのです。
ロシアの神秘家グルジェフは、こんな言葉を残しています。
「私の中に、何人もの私がいる」
たとえば、生まれたばかりの時から、今のいままで、私はずっと私でした。これが常識的な考えです。しかし、幼い時の私と、今の私は同じでしょうか?
きっと考え方も感じ方も違うでしょう。でも、それでも、同じ私と考えていませんか? つまり、自分の年代ごとに考えが変わっていませんか? 感じ方が変わっていませんか? もしそうだとすると、どのように違っていたのでしょう?
つまり、こう言えるはずです。「私は年代ごとに違う人である」。「同じ人」「違う人」という基準は何かという疑問にも直面するかもしれませんが、確かに「違い人」と言えなくはないでしょう。この考えを受け入れると、私は年代によっても違いますが、同じときにも立場の違いによって考え方、感じ方が違うことに気づくでしょう。たとえば、自分が親と言う立場から見た時の環境問題と、会社員という立場から見た環境問題、そして、近所のいいおじさんおばさんから見た地球環境は、みんな違って見えたり、違う感覚を感じたりしませんか?
だとすると、自分の中に意見の異なる、感覚の異なる自分が何人かいませんか?
もしそれを認められるのであれば、異なる意見を一人の人間が抱えていませんか? ある立場から見るとyesであるものが、別の立場から見るとNoであったり、ある年代の感覚で感じて見るとNoであることが、別の年代の感覚で感じてみるとyesであったり。そういう矛盾のようなものを実は抱えているのではないですか?
幼い頃からそういう矛盾はなくすべきだと教わってきたので、そういう矛盾を無理矢理感じないようにしていたのではないですか?
そういう矛盾はなぜ生まれるのでしょう?
あるときは「いいな」と思ったのに、別のときには同じことを「よくない」と感じたりするものです。実は、そういうものが自分なのかもしれません。つまり、教育によっていつも統一された答えを出そうとするのは、教育という縛りをかけられたから。素直に感じてみると、いつも矛盾が生まれてくる。それが自分ではないですか? つまり「自分」というものは常に統一されたものという幻想を抱いていませんか?
仏教書なんかを読んでいると、「色即是空 空即是色」などといいながら、ちょっとお酒を飲んで可愛い娘がいたりすると、鼻の下を伸ばしていませんか?(←これは僕かも) ウチの亭主が世界一とか言いながら、かっこいい美男子がいるとうっとりしたりしませんか? それを責めるつもりはありません。そういうものではないか?という問いかけです。綾小路きみまろの漫才に出てくる奥様方のように生きているのかもしれません。
たとえば「喧嘩相手」がいたとします。その人はどんな人か、いろいろと思い浮べます。「鬱陶しい」「腹立たしい」「いなくなれと思う」「あいたくない」などとすぐに思い浮かぶでしょう。そしてほかにもいろいろと思い浮べていきます。「自分には気づけないことを指摘する」「共通の深い関心がある」「自分にはない観点がある」「喧嘩は楽しいことがある」「その人がそばにいると力を出すことになる」「イキイキする」などと思い浮かぶかもしれません。そうだとすると「喧嘩相手」という思い込みのある表現から「対話相手」と表現を変えてもいいかもしれません。「喧嘩相手」と思い込んでとる行動と、「対話相手」と思ってとる行動では、行動に違いが出そうです。自分のなかに何人もの自分がいるように、他人の中にも何人ものその人がいるとするとどうでしょう? 些細なきっかけで相手を怒ったりするのは正しくないことかもしれません。
このような話を起点に、いろんな視点について考えました。