レゾナンスCafe Vol.026 「オメガポイントはどのようにしてできるのか?」が、2018年10月10日に開催されました。つなぶちようじさんにお話しいただきました。以下がその概要です。
地質関係の学会ではいま、地質時代区分に新しい「世」を加えることを検討しているそうです。その「世」は「人新世(アントロポセン)」。地層にさえ人間が影響を及ぼし始めているということです。1950年を境にして「人新世」になるかもしれないとのこと。まだ説であって正式には決まってないのでこのように決まるかどうかははっきりしてないものの、支持する学者が多いそうです。なぜ1950年かというと,グレート・アクセラレーションという人間活動の爆発的増加が起きたからです。グレート・アクセラレーションは、20世紀後半に以下の増大が顕著に起きたことを表現する言葉です。
人口、都市人口、GDP、海外投資、燃料使用、巨大ダム、水の使用量、紙の生産量、肥料消費量、交通輸送量、遠隔通信件数、海外旅行件数、大気中二酸化炭素量、大気中メタン量、大気中亜酸化窒素量、地表温度、成層圏オゾン量、海洋魚収穫高、海洋酸性度、沿岸窒素量、エビの養殖量、熱帯雨林の減少量、牧畜面積、陸生生物圏の劣化。
これはもちろん、第二次世界大戦が終わったことが大きな要因でしょう。戦争によって飛躍的な科学の進歩があり、のちの平和によって科学的な発明や発見が広範囲に利用されるようになる。その結果、メディアの普及が世界的になり、人の移動が飛躍的に増大し、国と国との関わりもかつてないほどオープンになったからと言えるでしょう。これはヌースフィアの進化によってもたらされたと言えます。
ヌースフィアとは何かを説明する前に、地球がどのように構成されているかについてお話します。地球は地核、岩石圏、水成圏、大気圏、成層圏でできています。それに加えてオーストリアの地質学者スエス(Suess1831〜1914)がバイオスフィア(生命圏)という圏を提唱しました。それはフィジオスフィア(物理圏<地核、岩石圏、水成圏、大気圏、成層圏をまとめてそう呼ぶ>)に生命が生まれ生み出した、地球上の動植物によって被覆された膜です。やがてバイオスフィアに人間が生まれ、人間はそれまでの生物には生み出しようのないものをたくさん作ります。それら人工物によって覆われた膜をヌースフィアと呼ぶのです。
バイオスフィアもヌースフィアも、それを構成している複製子があります。バイオスフィアの複製子は遺伝子であり、ヌースフィアの複製子は言語です。遺伝子を包む環境が安定的にあり、そこで遺伝子は進化していきます。その結果生命は多様性を極めます。同様にヌースフィアの複製子である言語のまわりには、それを包む環境があり、そこで言語も進化していきます。遺伝子の進化はどのようなものかすでにいろんなところで議論されているのでイメージできると思いますけど、言語の進化とは一体何かについてはあまり簡単にはイメージできないかもしれません。それを把握するためにまずは遺伝子の進化とはどのようなものかを考え、それに対して言語の進化はどのようなものなのかを考えてみます。
遺伝子の進化を僕たちは直接遺伝子を調べて知るのではありません。遺伝子によって生み出された生命がどのようなものなのかを見ることによって、その進化を知ることになります。生命ははじめ、フィジオスフィアの要素を使って生命を構成します。つまり、岩石や大気、それらが容存している水などを利用してからだを作るのです。つまり最初のバイオスフィアはフィジオスフィアの要素を利用して構成されます。ところが時間が経つに従い、生命はフィジオスフィアから独立していくかのような動きを見せます。つまり、バイオスフィアの要素は、バイオスフィアの要素を利用して拡大していくかのように見えてきます。しかし、フィジオスフィアの要素をまったく摂取しなくなる訳ではありません。一部フィジオスフィアの要素を吸収しながら、バイオスフィアは拡大していきます。時間がたつほどバイオスフィアに含まれる要素どうしでのエネルギーのやりとりが増えてくるので、ついにはバイオスフィアだけで独立してエネルギー循環がおこなわれるかのように思えますが、実際にはフィジオスフィアという場を利用しない限りバイオスフィアは存続できないので、バイオスフィアは完全にフィジオスフィアから独立する訳にはいきません。一方でバイオスフィアは次第にフィジオスフィアをマネージし始めます。バイオスフィアの進化に伴い、フィジオスフィアはさまざまな影響を受け、バイオスフィアの存在にとって有利になるように作られていきます。これがバイオスフィアとフィジオスフィアの関係です。この関係が進化し切る頃にバイオスフィアに次の複製子をもたらす存在が生まれました。それが人間で、次の複製子は言語です。
似たことがヌースフィアとバイオスフィアの関係にも生まれてきます。人間ははじめ言語を使ってバイオスフィアやフィジオスフィアを表現していきます。その結果、言語は少しずつ進化し、バイオスフィアでは生まれようがなかったヌースフィアに独特の存在をもたらします。つまりそれは人工物や言語によってもたらされる概念などです。しばらくすると言語は人工物や概念などに満ちあふれ、バイオスフィアやフィジオスフィアを表現している言葉は少なくなったかのように思えるでしょう。しかし、まったくなくなる訳ではありません。
バイオスフィアの進化を次のように表現してみましょう。
1.フィジオスフィアから資源を得る。
2.次第にバイオスフィアからも資源を得る。
3.フィジオスフィアからは独立しようとしているかのように見える。
4.新しくできてくる要素の資源はほぼバイオスフィアの圏内に限られてくる。
5.食のネットワークができる。
6.新しい複製子が生まれる。
これになぞらえてヌースフィアの進化を考えると以下のようになります。
1.言語はバイオスフィアを表現する。
2.次第に言語はヌースフィア独特の存在を表現するようになる。
3.バイオスフィアから独立しようとしているかのように見える。
4.新しくできてくる言葉はほぼヌースフィアの圏内に限られてくる。
5.言語(概念)が流通するネットワーク(メディア)ができる。
6.新しい複製子が生まれる。
ヌースフィアが生み出す新しい複製子は、ネット上を走り回るソフトやアプリケーション、AIなどです。それらが生み出す新しい圏をここではサイバースフィア(電脳圏)と呼ぶことにします。
ヌースフィアのバイオスフィアに対するマネージが搾取的だと、サイバースフィアのヌースフィアに対するマネージも当初は搾取的になると考えられます。ヌースフィアはバイオスフィアに対して搾取的であるというのはなぜ言えるのでしょう? たとえば、このような事実からです。
動物種のうち残存する数えられる動物頭数の七割ほどが家畜である。(何かの本で読んだのですが、原典がいまは見つかりません) つまり、ヌースフィアに資することのない動物はほぼいなくなっていく。魚類もかつてはいまよりずっと生態系が豊かでした。植物にいたっては、原生林がかつての二割しか残っていません。つまり、ヌースフィアはバイオスフィアに対して非常に搾取的と言えるでしょう。もしこの搾取的な状況がそのままサイバースフィアにコピーされると人間は大変困ったことになります。このことについてベストセラーの『ホモ・デウス』でユヴァル・ノア・ハラリはこう書いています。
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ダーウィンの進化論という揺るぎない基盤に根差しているこの人間至上主義は、争いは嘆くべきではなく称賛するべきものだと主張する。争いは自然選択の原材料で、自然選択が進化を推し進める。人間に優劣があることには議論の余地がなく、人間の経験どうしが衝突したときには、最も環境に適した人間が他の誰をも圧倒するべきだ。野生のオオカミを絶滅させ、家畜化されたヒツジを情け容赦なく搾取するように人類を駆り立てるのと同じ論理が、優秀な人間が劣悪な人間を迫害することも命じる。ヨーロッパ人がアフリカ人を征服し、抜け目ない実業家が愚か者を破産に追いやるのは善いことだ。もしこの進化論的な論理に従えば、人類はしだいに強くなり、適性を増し、やがて超人が誕生するだろう。進化はホモ・サピエンスで止まらなかった。まだまだ先は長い。ところが、もし人権や人間の平等の名のもとに、環境に最も適した人間を去勢したら、超人の誕生が妨げられ、ホモ・サピエンスの退化や絶滅まで招きかねない。
では、超人の先駆けとなる、その優秀な人間たちとは誰なのか? それはいくつかの民族全体かもしれないし、特定の民族かもしれないし、個々の並外れた天才たちかもしれない。それが誰であれ、彼らが優秀なのは、新しい知識やより進んだテクノロジー、より繁栄した社会、あるいはより美しい芸術の創出という形で表れる、優れた能力を持っているからだ。アインシュタインやベートーベンのような人の経験は、酔っぱらいのろくでなしの経験よりもはるかに価値があり、両者を同じ価値があるかのように扱うのは馬鹿げている。同様に、もしある国が一貫して人間の進歩を先導してきたのなら、人類の進化にほとんど、あるいはまったく貢献しなかった他の国々よりも優秀だと考えてしかるべきだ。
したがって、オットー・ディックスのような自由主義の芸術家とは対照的に、進化論的な人間至上主義は、人間が戦争を経験するのは有益で、不可欠でさえあると主張する。映画『第三の男』の舞台は、第二次世界大戦終結直後のウィーンだ。先日までの戦争について、登場人物のハリー・ライムは言う。「けっきょく、それほど悪くはない。……イタリアでは、ボルジア家の支配下の三〇年間に、戦争やテロ、殺人、流血があったが、ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチが登場し、ルネサンスが起こった。スイスには兄弟愛があって、五〇〇年も民主主義と平和が続いてきたが、やつらは何を生み出したか? 鳩時計さ」。ライムはほとんど全部、事実を取り違えている。スイスはおそらく、近代初期のヨーロッパで最も血に飢えた地域だった(この国の主要な輸出品は傭兵だった)し、鳩時計はドイツ人が発明したが、こうした事実はライムの考え方ほど重要ではない。その考え方とは、戦争の経験は人類を新しい業績へと押しやるというものだ。戦争は自然選択が思う存分威力を発揮することをついに可能にする。戦争は弱い者を根絶し、獰猛な者や野心的な者に報いる。戦争は生命にまつわる真実を暴き出し、力と栄光と征服を求める意志を目覚めさせる。ニーチェはそれを次のように要約している。戦争とは「生命の学校」であり、「私の命を奪わないものは私をより強くする」。
『ホモ・デウス』下巻 ユヴァル・ノア・ハラリ著 豊田裕之訳 河出書房新社刊 p.71〜72
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怖い話です。一方で「ヌースフィア」という概念を作ったテイヤール・ド・シャルダンはその主著『現象としての人間』でこう書いています。
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生命の樹の樹液全体を一本の枝だけのために集め、他の枝の死の犠牲の上に立つ民族主義者の理想は誤っているし、自然の理にそむいている。太陽にむかって伸びあがるためには、まさに木の枝全体の成長が必要なのである。世界の出口、未来の扉、超=人間への入口、これらは、いく人かの特権者やあらゆる民族のなかから選ばれた唯一の民族だけに開かれているのではない。それらは万人の圧力に対して、すなわち、全人類が地球の精神的革新において一致団結し、完成されるような方向に対してのみ道をあけるのである。
『現象としての人間』ティヤール・ド・シャルダン著 美田稔訳 みすず書房刊
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しかし、このような未来になるためには現在の文化・パラダイムを大きく変える必要があるでしょう。どのような文化に変えるべきかについて多少のお話しをしました。
統合心理学を提唱しているケン・ウィルバーはその著書『意識のスペクトル』のなかで、意識には段階があり、以下のようなものだと言います。
前自我段階
子どもの意識。自分というものを明確に意識していない。
神話-共同体段階
ある集団に同一化している意識状態。自分と集団を明確に分離していない。ものの見方は呪術的・魔術的。
自我段階
他者と異なる自我の意識が明確に現れた段階。現在の人類の標準的な意識水準である。合理的・論理的な判断力がある。
ケンタウロス段階
「純粋意識」つまり、自我の制約を超えた意識であり、想念や感情とは異なる「自分そのもの」の自覚。
微細(サトル)段階
時間空間の制約を超える。元型的イメージの世界。超感覚の発生。
元因(コーザル)段階
純粋な形、理念の世界。いわゆる神仏。光明、絶対的な愛など。
非二元(究極)段階
すべてをこえた「絶対」そのものとの一致。究極的な覚醒。宇宙との合一。
人は生まれて学ぶことでこれらの段階をへていきます。社会全体が高い段階にあればあるほど、そこにいる個人がその段階に至るのは簡単なことになるでしょう。現代社会は自我段階にあるといいます。一部センスのいい人がケンタウロス状態や微細状態ににいるものと思われます。元因段階や非二元段階にいる人は極少数だと考えられます。もし社会全体がケンタウロス状態や微細状態にいたることができれば、元因段階や非二元段階にいる人はさらに増え、社会の一般的通念が変化していくと思われます。それはテイヤール・ド・シャルダンが『現象としての人間』に書いたオメガ・ポイントに近いものとなるでしょう。