平成30年5月9日にThink the Earthのプロデューサーであり、ディレクターである上田壮一さんをお招きして、レゾナンスCafe Vol.021「星々から地球へThink the Earthという視点」を開催いたしました。
上田さんは幼い頃から星が好きでした。今でも、皆既日食があると見に行ったりしているそうです。大人になったら宇宙の勉強をしようと考えていたとか。「地球:母なる星」という本に出会って、興味の対象が「宇宙から振り返って地球を見る」という視点に移ったそうです。それ以来、俯瞰的な視点から地球を見つめることで仕事をしています。
クリエイティブの力で無関心を好奇心に変える
いま僕がやっていることは社会や環境の問題にクリエイティブなアプローチをすることです。ソーシャルコミュニケーションやソーシャルデザインという分野で、最近、関連する書籍も多く出版され、各所で聞かれるようになりました。大学で「ソーシャルデザイン論」を教えています。でも実際には「論」と明確に呼べるものはなくて、いまはまだ実践が先行している段階で、いろんな事例の共通点を探しているような感じです。ソーシャルデザインやソーシャルコミュニケーションで人の心を動かし、社会や環境の問題を解決するようにしていく。コミュニケーションだけで解決できるわけではないので、解決のサポートをしたりとか、問題を理解してもらって解決の方向に導いたり、実際の行動が伴わないと解決にはいたらないので、そういうことを促すということをやっています。
未来を変える目標
最近の仕事は「未来を変える目標 SDGsアイデアブック」を出版したことです。SDGは「Sustainable Development Goals」という意味です。2015年に国連サミットで全会一致で決められた2030年までのグローバル・ゴールです。全部で17個のゴールがあって、貧困をなくそうとか、不平等をなくそうとか、住み続けられるまちづくりをしようとか、環境と社会と経済が全部入ったゴールを世界中の人たちが協力して達成しようというのがSDGなのです。企業でも教育の場でも、SDGsという言葉が聞かれるようになってきましたし、これからもっとますます聞かれるようになるでしょう。
SDG 17のゴール
1.貧困をなくそう
2.飢饉をゼロに
3.すべての人に健康と福祉を
4.質の高い教育をみんなに
5.ジェンダー平等を実現しよう
6.安全な水とトイレを世界中に
7.エネルギーをみんなにそしてクリーンに
8.働きがいも経済成長も
9.産業と技術革新の基盤を作ろう
10.人や国の不平等をなくそう
11.住み続けられるまちづくりを
12.つくる責任つかう責任
13.気候変動に具体的な対策を
14.海の豊かさを守ろう
15.陸の豊かさも守ろう
16.平和と公正をすべての人に
17.パートナーシップで目標を達成しよう
だけど、なかなかいい教材がありませんでした。ネット上には国連とか、外務省、総務省などが説明のためのページを設けていますが、堅い言葉で書かれているため、一般の人が取り組むにはちょっと難しいので、わかりやすくした本を今週5月8日に出しました。とても人気になり、アマゾンでは一月待ちとなり、いまあわてて増刷しています。インフォグラフィックや写真を使ったり、漫画を入れたり、わかりやすくシンプルに表現してあります。
Look Back and Look Forward
ここからは前回のおさらいです。1977年にボイジャーという宇宙船が旅立ちました。有名なのはカール・セーガンがゴールデン・レコードをいれたことです。ボイジャーは1号と2号がありますけど、今も飛び続けています。太陽の磁気圏を飛び越えました。宇宙の果てに向かって飛んでいます。いまも信号は届いていて、NASAのページで見ることができます。何十億キロ彼方を秒速20キロという、ものすごい速度で飛んでいます。
90年2月15日、ボイジャー1号がファミリーポートレイトという写真を撮りました。太陽系の家族写真です。太陽系外に出て振り返って、遠くから惑星を撮影したものです。
これで撮られた地球はペールブルードットと呼ばれています。1px以下の画像です。この小さな星の上でいろんなことが起きている。戦争だとか、夫婦喧嘩だとか。といったことを、カール・セーガン自身がスピーチしています。その丁度2年後、1992年2月15日に龍村仁さんと一緒に作ったテレビ番組「宇宙からの贈りもの」が放映されました。
この番組もそうだったんですけど、テーマは「Look Back and Look Forward.」だと思っています。未来に向かうときにただ前を見るのではなく、どこかでふっと自分たちの姿を振り返る。しかもそれが「宇宙から」とか、俯瞰的な視点から振り返る。ボイジャーのファミリーポートレイトは、もともと計画されていないミッションだったんです。それが89年に海王星の撮影を終えて、何もやることがなくなり、NASAのスタッフがボイジャーにルックバックさせたくなった。自分はこの先、宇宙の奥へどんどん行くけれども、一目自分がどこから来たのか見せてあげたいなと思った。NASAのひとたちにインタビューしたんですけど、ボイジャーが「見たいと思っている」んじゃないかと言ってました。(笑) ボイジャーという宇宙船に対しての愛着から生まれた考えなんです。「ボイジャー君は手間のかかる子」だったんですね。当時は8bitのコンピューターで、メモリ容量も小さいので、ミッションが終わるたびに新しいプログラムを全部上書きして行った。だからみんなヒヤヒヤしながら実行していたプロジェクトなので、愛着がひとしおだったんです。そこで振り返らせてあげたいなと思ったんですね。それで一度 Look Back して写真を撮り、もう一度振り返って Look Forwardして飛んで行く。その感じが僕のなかではとても大切なことなのではないかと思っています。だからその後、僕のプロジェクトはなんとなく「Look Back and Look Forward」というのが、裏テーマとして入っています。
88年に「地球:母なる星」が出版されます。この写真集のなかに宇宙飛行士の言葉がいくつか出てきます。それらがとてもいいのでご覧いただきます。
未来へ向かって行く時、前へ前へと思ってしまいますけど、一度振り返ることが大切なのかと思います。
退職のきっかけ
なぜそんなことを考えるのか。僕にとって大きかったのは1995年1月の阪神大震災です。出身が兵庫県西宮市なので、故郷なんですね。地震が起きた二ヶ月後に様子を見に行きました。
自分が生まれた最寄り駅。すべてなくなっていました。このときは広告代理店にいたんですけど、この様を見て「人が何かを創るってどういうこと?」と思いました。7月くらいからボランティアで行くようになったのですが、そうすると人はいつまでもふさぎ込んでいる訳ではなく、6000人以上の方が亡くなったので、喪が明けて亡くなった方達の分もがんばって生きて行こうという気持ちが芽生えて来るんですね。お店も復活してきてライブハウスの「チキンジョージ」も再開していました。面白いもので音楽とか風俗産業とかの復活が早いんですよ。あとは食べ物ですね。人間の根源的欲求がどこにあるかがわかりますね。きっと人の元気を作るということなんでしょう。それで街の立ち上がり方を見ていると、みんなめちゃくちゃクリエイティブなんですよ、やっていることが。たとえばつぶれたお店を再開するのに「俺は生きてるぜ」とかね「こっちでやってるぞ」とか看板があちこちに出ていました。ものすごく一生懸命メッセージを届けようとしている。それって広告と同じですよね。マクルーハンが「メディアはメッセージ」っていいましたけど、伝えたいことがあって、メッセージがあってメディアは生まれてくるんだと思いました。伝えたいことがあるから看板というメディアができる訳です。そういうことを目の当たりにして「人間はすごい」と思ったんですね。人の創造性は何のためにあるのか。広告会社にいると企業の利益のためとか、売り上げのためとか、そのことのために血道を上げていろんなことをやるんですね。でも震災のときにみんながやっていたのは「家族のため」とか「明日のため」とか「いつも来てくれていたお客さんのため」とかそういうことで、「元の神戸よりもっといい神戸にしよう」というキャッチフレーズもできましたね。そういう復興に向けての気持ちがクリエイティブなんだなと思いました。僕も「明日のため」とか「未来のため」とかに働きたいなと思ったんです。自分にもし創造性があるのなら、そっちに使いたいと思った。
こんな経験から「自分の故郷がめちゃめちゃになったのに、お前は何をしているんだ」といわれているような気がして、96年に会社を辞めました。そのときに阪神大震災コミュニケーション展という展覧会を銀座の電通ギャラリーで開催しました。それが僕にとっては大きかったです。たとえばテレビとかが震災の現場に行って悲惨なところとか、お涙系の映像を切り取って放映するんですね。でも実際に被災地に行くと世界を引いてみられるんですね。テレビだとフレームに収まる範囲しか見られないじゃないですか。たとえば実際にさっきの写真の壁が崩れていたり、道路が裂けていたりするのは自分が行って近づかないと見られない。たとえばある人がこんなことを言ってました。
「テレビってさ、私が泣いているところばかり撮るのよね。笑っている時間もあるのよ」ってね。
なので本当のことは伝わってないなと思ったんですね。それでいろいろと工夫をして、東京で展覧会をしたんです。95年でしたから、ウィンドウズ95でインターネットが一般化した年でした。そこでインターネットを使って被災したひとたちに呼びかけ、スナップ写真を集めました。50人くらいの人が応募してくれて、その50名がみんな違うテーマで撮ってきてくれたんです。ある人は家の前で真っ赤なフェアレディZがつぶれている写真を角度を変えて何枚も何枚も撮ってきてくれました。余程悔しかったんでしょう。ある人はおうちがもう解体しなければならない。解体の日に鉄球で家を壊していく写真を送ってきたりだとか。写真学校の生徒がモノクロームのたった一枚で悲惨な状況を表現したりだとか、みなさん本当にクリエイティブでした。
そのとき一人の被災者で電通社員だったH君が送ってくれたのは、壊れた実家の前で家族と一緒に撮った写真だったんですけど、そこに手記が添えられていて、地震が起きてから5日間くらいのことが書かれていました。今回の展覧会の開催を聞いて書く気になりましたと書かれていて、そのあとずっとその母親が地震で亡くなったことを克明に書いていたんです。地震のあと、夜になって自衛隊が来るんですけど、家がつぶれていて母親をどうすることもできない。そこに自衛隊がやって来る。声をかけてみろと言われてそうすると何も聞こえない。「生きている人を助けるのが先だから」と行こうとする自衛隊に聞こえなかったけど「今聞こえました」と言ってお母さんを掘り出してもらう。学校には棺桶が次々と届けられ、そこに母親を入れて棺桶の蓋をする。釘を打ち付けて。それを終えると他の人の棺桶を作るのを手伝う。現実に起きていたのはこういうことなんだなと思いました。そしてその手記は結局、TBSの番組で浅野ゆう子さんに朗読してもらうことになりました。浅野さんも神戸出身なので。浅野ゆう子さんは途中で泣いてしまってそれが全国に流れました。このときの一連の経験が、会社という枠組みの外へと僕を後押ししてくれたと思っています。
地球交響曲第三番
それで会社を辞めてガイアシンフォニー(地球交響曲)という映画の助監督になりました。撮影が始まったのは96年の夏。第三番の助監督をしたんですが、一番は、ラッセル・シュワイカートとか、エンヤとかが出ていました。二番はダライ・ラマ、佐藤初女さんなんかが出ていました。で、第三番は写真家の星野道夫さん、フリーマン・ダイソンという宇宙物理学者、そしてナイノア・トンプソンというハワイの航海士。この三人をフューチャーした映画でした。僕が会社を辞めたのが96年の4月でした。最初の三ヶ月は別の仕事をしていました。ゲームを作っていたんですけど、それが終わって7月から龍村仁さんの事務所に席をもらって助監督の仕事についたんですね。それで勉強のために星野さんの本とか読んでいたんです。一番最初の撮影が星野さんだったんですよ。7月の終わりに龍村さんと星野さんが新宿御苑で打ち合わせをして、「ではアラスカで会いましょう」と言って別れて、8月6日に星野さんはアラスカで熊に襲われて亡くなってしまう。
星野さんの写真は素晴らしくて、いまでも写真展をやると大入り満員になるんですね。彼の写真は、いわゆる動物写真ではないんです。
岩合光昭さんという動物写真家がいるじゃないですか。彼は動物との異種間コンタクトがめちゃめちゃ凄くて、動物が逃げない。ライオンでもアップで撮る。動物に認められる天才。だから岩合さんは「自分はここにいるけど認めてね」って写真で、クローズアップが多いんです。星野さんは逆のタイプで、「自分はそこにいない」という写真を撮ろうとしていたんですね。彼は十万年、二十万年続いてきた自然の営みを、人間が壊そうとしている訳ですけど、彼はその人間がいない「もうひとつの自然」を撮影しようとしていた。でも、カメラマンが機材を持ってそこに行けば、自然は警戒を始める。だからブッシュパイロットにそういう場所に連れて行ってもらって降り立つと、一人になって飛行機は帰るんですね。それで「一ヶ月後に迎えにきてね」と頼んでおく。最初は星野さん撮影しないんです。ただひたすら日々生活をして、じっとしていると次第に自然が認めてくれると。ざわめきが落ち着いて「あいつはあそこにいるけど、大丈夫かな」という状態になる。そのくらいからやっとシャッターを切り始める。だから星野さんの写真は引き絵が多いんです。遠くをカリブーが歩いていく写真ですとか。それで僕は星野さんに会えると思っていたんですけど、会えなくなってしまった。星野さんの映像は撮影中止だなという話になりかけたんですけど、映画のテーマを変えて、「いない星野さん」を撮ろうということになり、星野さんの友人たちに会っていったんですね。映画の撮影って本当に大変で、荷物が60とか70とかあるんですよ。それで荷物に番号つけて。フィルムだけでもたくさん持っていきます。カメラもいろんなレンズを持ち、予備のカメラも持ってかなければならない。冬のアラスカは本当に寒いんですよ。寒いと人の気持ちも萎縮するので、コミュニケーションのすれ違いも頻発して、僕自身フィルムでの撮影に慣れていないことも重なって、つらかったのを覚えています。飛行機で飛ぶたびに荷物を数え、降りたら数えて「あれが足りない」とかね。結果的に素晴らしい作品になりましたが、助監督という仕事は自分には向いていないなぁとは思いました(笑)。この映画ができたのが97年ですね。
Think the Earth Project
丁度その頃に並行してやっていたのがThink the Earth プロジェクトで、さきほど言った振り返る視点って、宇宙に行かない限り地球を振り返ることはできないじゃないですか、誰も。僕ももともと宇宙飛行士になりたい時代があったんですけど、当時は目が悪いとだめだったんですけど、いまは行けるんですね。当時行けるようになるとわかっていたらあきらめなかったかもしれませんが、メガネしているとダメってことであきらめました。
97年はインターネットの時代で、宇宙には気象衛星が飛んでいる時代で、これ液晶なんですけど、小さな小さなこの液晶が当時1枚30万円しました。プロジェクター用の液晶でした。こんな時計があれば、地球を振り返れるなと思いました。この時計をみんなが腕にすることを夢見たんです。NTTの研究所と一緒に作ったプロトタイプです。NTTの研究所の研究成果を事業にせよ、というミッションがくだり、プロデューサーという名刺を持たされて働き始めた人がいました。そのひとりが、外部のクリエイターたちとコラボレーションしたいと、ずいぶんいろんな人が集められました。そのなかに僕がいて、いま一緒にThink the Earthをやっている仲間がいたりして、たまたま僕が出したアイデアがEarth Watchでした。これが98年に作ったプロトタイプで、この写真には写ってないんですけど、この時計には線がつながっていて、その先にウインドウズマシンが隠れていました。コンセプトを伝えるために創る、ワーキングモデルと呼ばれるものです。フリーのエンジニアとか、アートディレクター、デザイナーたちとチームを作って半年かけて作り上げました。
ネイチャーネットワーク
ポール・スポング博士というシャチ(オルカ)の研究者がいます。カナダのハンソン島に住んでいて、夏になるとその島の周辺にオルカがやって来るんですね。300頭くらい来るんです。その島からインターネットを通じてオルカの生中継をするというプロシェクトをしました。いまだったら当たり前にできるんですけど、このときは大変でした。毎年夏から秋にかけて、陸からの映像はもちろん、水中カメラの映像や水中マイクの音声を24時間ネット配信しました。
スポング博士のラボでは、六つか七つのマイクの音が16チャンネルくらいで入ってきて、岬の右の遠くの音はヘッドフォンの右端から聞こえるようにして、そこから少しこちらに近いところのマイクはそれより左寄りに聞こえるようにとセットしてと、ヘッドフォンを聞けば、だいたいどのあたりでオルカが鳴いたのかがわかるようになっています。それを記録して野生のオルカがどのように移動していくかを研究していたんですね。
2000年に、オルカライブというサイトをつくって、そのラボのあたりのオルカの映像と音声を世界に配信したんです。世界中からものすごくたくさんのアクセスがありました。サイトの真ん中に、いまとなっては小さな映像を配信し、左側にはラボからのメッセージが読めるようにして、右側にはこの映像を見ているひとたちが自由にチャットできるようにデザインしたんですね。いまだとtwitterとかでできるんでしょうけど、当時はここに参加する人にメールアドレスを登録してもらって、カメラやマイクにオルカが近づくとメールが届くようにしていたんですね。たとえば交差点で待っている時、携帯がブルブルッとなると「オルカが来たな」とニヤッとしたりね、打ち合わせ中にこれが届いて気もそぞろなんてね。
人気があったのは朝日と夕日の時間ですね。毎年少しずつデザイン変更して、画面を大きくしたりしましたけど、今よりはずっと小さいですね。最後にはニ画面とかになりました。
これは沖永良部島の海亀の映像です。なんでこんなことをやっていたのかというと、ポール・スポング博士がネイチャーネットワークという考えを持っていたんです。はじめてポール・スポング博士に会ったのは1990年4月1日、入社日でした。入社式のあとに龍村さんのお宅でスポング博士に会って聞いたんですけど、そのときなぜ来ていたのかというと、ネイチャーネットワークという考えを実現するために日本のスポンサー探しをしていたんですね。
「電通ならなんとかならないのか」とか言われたんですけど、「今日入ったばっかりなんで(笑)」とか言ってました。
このプロジェクトはとても良かった。何が良かったのかというと、環境の問題とか、環境が壊されていくというのは、僕も悲しい気持ちは持っていたんですけど、その大きな原因はテクノロジーだと言われていました。でもスポング博士は衛星のテクノロジーとか、映像のテクノロジーを使って、自然が壊れるのを防ごうとしていたんですね。最先端の技術を使って自然を守る。それは僕にとってワクワクする話だったんです。僕は工学部出身だったんで、テクノロジーは大好きなんですけど、それが自然を良くする方向に使えるんだったら、そんなプロジェクトをやってみたいなと思ったんです。でもそんなことに誰がお金を使うんだろうと思っていました。僕は本当にがんばって、企画書を作っていろんな企業にプレゼンに行ってたんです。でもどこもかしこも全くダメでした。インターネットがまだ一般的ではなかった時代でした。衛星を使うと数十億円かかると試算されました。さすがに誰もやらない。このときに宇宙からのライブ映像を撮りたいと思い、それが先ほどのEarth Watchにつながっていて、そのときの企画が中継は無理でもCGならということでできたのがEarth Wathでした。
スポング博士はネイチャーネットワークで自然を学んでから来てよと言ってました。どういうことかというと、オルカを見にたくさんの観光船がやってくるんです。そうすると水中はボートノイズでいっぱいになるんです。オルカはクジラと同じでエコロケーション、音でいろんなものを見ているので、ボートノイズが大きいと困る訳です。そういうのをまず知らないと。知った人なら気を使ってくれますよね、きっと。
それからテレビは特徴的な場面しか流さないですよね。でも自然はいつどこで何が起きるのかわからない。だから面白いんです。だからライブでただひたすら垂れ流す。いまならインターネット上にそういうサイトがいくつもありますけど、まだインターネットがあまり使われていなかった時代に、ネイチャーネットワークという概念を生み出したんですね、スポング博士は。
2001年にインターネット・エキスポというのがありました。そのときNTTデータがネイチャーネットワークの考えに共感してスポング博士のスポンサーになってウミガメライブというパビリオンを作りました。沖永良部島の映像は高校生に管理してもらうことにしました。そこに素敵な先生がいて、その先生が高校生を焚き付けて、夏休みになると日本科学未来館にやってきて、研究成果を発表するんです。それを六年間続けました。何が良かったかというと、研究発表のあと、みんなで集まって反省会のようなことをするんですが、そのときに田舎の子どもたちはほぼみんな、どこか都会に出るためにはどうすればいいのかと考えるものですけど、ウミガメライブに参加した沖永良部島の高校生は一度は都会に行くけど、いつか帰って、島のためになることをしたいと言うんですね。なぜならこの中継をすることで世界中からいろんなメッセージが届いたんですね。それで彼らは気づくんです。沖永良部島の特殊性について。圧倒的な自然に包まれていることについて。この島はアカウミガメとアオウミガメが両方産卵に来る島なんです。そういう海域は世界でも珍しい。
21世紀になって、かつての価値観は崩れてきました。一回は島を出て、自分の島を外から見て、それから帰って来るのもよし、先に進むのもよし。思春期の子どもたちが俯瞰的な視点を持つことが大切なんだなと思いました。「Look Back and Look Forward」ですね。
Earth Watchの完成
Earth Watchはプロトタイプから先に進めようということになりました。NTTは特許を持っていましたけど、ロイヤリティをもらうだけでいいということになり、実際に作ってくれるメーカーを探してあちこち回りました。セイコーインスツルメンツが一緒に作ってくれることになりました。現在のセイコーインスツルです。2001年に完成しました。
この時計は、北半球が自転方向に回っています。そのまわりには24時間の文字盤が刻まれています。上から見ると、日本の場所で日本の時間が、ニューヨークではニューヨークの時間が、文字盤を読むことでわかります。北半球のどの場所でも、だいたいの時間がすべて一目でわかるんです。宇宙からみれば時間も世界もひとつであることが、こんなものからでもわかります。98年から話し合いが始まり、実際に製造することが決まったのは2000年4月でした。
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このあと一度お話しを中断しました。予定の時間をオーバーしてしまったためでした。もう一度、この続きを7月11日(水)の午後7時からおこなうことにいたしました。詳細はこちらに。
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