グリッター・ゆき
多次元の存在からすると「次の次元に移行すると何が起きるか?」って考えるのは、実はナンセンスなのよね。
私たちには三次元が考えやすいからそれを例にするけど、たとえばxyz空間があるじゃない。あそこにある立体を見た上で、xy平面に何が投影されるのか、yz平面に何が投影されるのか、zx平面に何が投影されるのかって、それぞれ理解できるわよね。そしてそれは立体を把握できる私たちにとっては、なにひとつ矛盾がない。まあそういうことってことよね。でも、平面に生きている人ってのがいたとしたらどうかしら?
「私はxy平面にいるからyz平面の可能性はない」とか、「zx平面はありえない」とか考えるんじゃないかな? 三次元の人間から見れば、どの平面を選ぶかによって同じ立体でも見える形が違うのよ。ところが二次元に生きている人は、それをなかなか理解できないわよね、きっと。
それと同じでさ、10次元に生きている人がいたとして、その人がどの四次元を選ぶかって、それは自由じゃない。私たちは「縦、横、奥行き、時間」と四次元を考えるけど、10次元に生きている人はもっと別の軸をたくさん持っているのだから、その軸を「縦、横、奥行き、時間、a,b,c,d,e,f」として、四次元を考えるのに、「縦、a,b,時間」という軸で物事を考えることもできるのよ。わかる?
だから、四次元を「縦、横、奥行き、時間」と考えるのは、私たちの勝手な思い込みなの。じゃあどんな軸がほかにあるのかというと、それは無限にあるの。私たちがこの宇宙に創造する軸の数だけ、それが現れるの。変だと思うでしょう? でも変じゃないの。私たちは「事実は私とは関係ない」と考えがちだけど、「事実こそ私たちに大きく関わっていて、私たちの存在こそが、事実をそのように見せてくれているのよ」。
少し難しいからほかの話しをしてからまたゆっくりその話しに戻ってくるわね。
だからとにかく、五次元目の軸は何かって、いろんな軸を取ることができるけど、理解しやすいのは人格軸だと思うの。それはね、私たちから見ると変な軸だけど、多次元な存在から見れば「そうね」ってもんだと思う。ヨガの修行をしていくと、いろんな力を得るそうだけど、その力には五つあって、その五つの力を仏陀は禁じたんだって。その五つは、まずシッディ。それは神通力のようなもの。空中浮揚とかあるでしょ。あのたぐい。それから天的眼力。見えるはずのないところを見る力ね。そして天的聴力。聞こえるはずのない音や声が聞こえる力。そして四番目は他人の心を知ること。最後が前世を思い出すことなの。このうちの「他人の心を知ること」ってのは、比較的想像しやすいと思わない? それについて話すわね。
本当に本当には、他人が思っていることは正しく理解できるかどうか分からないわよ。でも、わかった気にはなれるじゃない。結局分かった気になったのか、実際に分かったのかって、どこまでいっても答えは出ないのよ。それを「わかった」という立場で語るのか、それとも「わからない」という立場で語るのか、その違いなの。そして、私たちはどちらかだけが正しいことだと考えがちだけど、そのこと自体疑った方がいいと思うのよねぇ。だってもし他人の考えていることがわからないのなら、自分の考えていることもわからないんじゃないかしら。もっと正確にいうと、「他人の考えていることがわからないという立場で話す」のであれば、「自分の考えていることも実はよくわかってない」という立場で話ができるのじゃないかしらってこと。だってさ、さっきまで自分はこう思っていたけど、よく考えるとこうだったとか、よく感じてみたらやっぱりこうなっていたとかってあるじゃない。それは自分にも起きることなのよ。だとしたら、他人のことがわからないのも、自分のことがわからないのも同じようなものよね。だとしたら、自分がわかっているという立場を取るのと同じように、他人のことがわかるっていう立場の取り方もできるでしょう? このことはいくらでも反論できるので、そういう反論はあるだろうなということを私は知っているけど、それでもこの話を進めていくわね。
たとえばさ、過去の偉人の物語があったとするじゃない。それって事実かどうかわからない部分を空想で埋めて作ってある作品って多いでしょう? その作家がその人のことをよく調べてさ、それできっとこのときこの人はこう感じただろうって物語を作るでしょう。それを読むと読んでいる方もそうだろうなって感じになるじゃない。つまりある人の状況を丁寧に調べていくと、その人がどういう感情を持ったのか、ある程度推測できるのよね。その推測できた感情で当時の出来事を知ると、その人の視点で知ったような感じになるでしょう? ただ事実を知っただけだと、それは単なる事件だけど、その事件をある人の視点を通してみると、その事件には感情も含まれるから違う色合いを帯びることになるじゃない。そういうことがわかるってことが大きな要素になると思うの。
たとえば、今なにか事件が起きたとして、それを傍観者として見るのと、被害者として見るのと、加害者としてみるのでは、まったく違うものに見えるでしょう? それがとても大切なのよ。
この世界はいろんな立場の違う人の集まりでできているでしょう。当たり前のことだけど。そして、この世界を、どの視点で見るかで見えるものが違うというのも理解できるでしょう? そうすると、私が見ているこの世界っていうものは、私の視点で見える世界でしかないのよ。わかるでしょう? つまり別の人の視点で見た世界は、きっと違う世界が見えているはずなの。だけどさ、私たちって比較的、世界というものは誰が見ても「世界は世界」としか考えてないように思えない? 違うという人はいいんだけどさ、多くの人は同じ世界を見ていると思い込んでいるような気がするんだ。でね、違う世界を見ているから話が食い違ったりもするのよ。ね? そのことを理解しないとならないの。それを理解するためには、違う人の視点に立ったつもりで考えるってことをしなれないとダメよね。
でさ、現代の人たちって、昔の人たちよりそれが楽にできると思うの。たくさんのドラマや映画を見るでしょう? 他人の立場に立つということが、いろんな物語を読んだり、映画を見たりすることで感覚的に昔の人より理解できるというか、体感できるようになっていると思うの。だから他人に同調もしやすい。
ここでやっと曼陀羅の話なんだけど、もともと曼陀羅って何に使ったのか知ってる? あれは美術品じゃないのよ。修行のための道具なの。曼陀羅に対応するお経があるのよ。お経を読みながら曼陀羅を見るの。それでいったい何をするのか。この世界をイメージする練習をするの。
たとえば、大日如来が中心に描かれた曼陀羅があるとするでしょう。そうすると、大日如来のまわりには、なんとか如来とかんたら如来がいて、うんたら菩薩となんだか菩薩がそのまわりにいる、なんてことが描かれているでしょう。それに対応したお経には、その如来や菩薩たちがどんな話をしているのかなんてことが書かれていたりするのよ。そこには如来や菩薩の性格もはっきりと記されていて、だからそういうことを考えるとか、こんなことを思ってしまうという物語がわかるようになるの。そうするとその世界はもう動かない絵ではなく、いきいきと動き回る動画のように観想されるわけ。それができることが修行なの。それができるようになるとどうなるかというと、この世界に生きている時も、性格や立場、状況などで見えるもの、感じることが違うということが当たり前になるでしょう? だから徳の高い人と言われるような人格者になっていくのよ。たくさんのドラマや映画を見た人に似ていない? そして、ときどき曼陀羅の世界を観想しているときに視点を変えたりするの。たとえば大日如来から宝生如来になったとすると、それだけで世界が変わるのよ。そういうことが理屈や理論でわかるんじゃなくて、肉感的にわかるようになるのよね。そうすると、人格が変わるわけじゃない。だから、曼陀羅を観想することで、人格軸を移していくことを覚えるの。
これって何杯目かしら、もう一杯ちょうだい。今日は徹夜かしら? なんかそのくらい熱くなってきた。