母は絵を描くのが好きだった。若い頃に地方紙の美術賞に入選した。しかし、結婚し、子育てに忙しくなると絵はもう描かなくなった。子供が育ち、自分の時間を持てるようになり、再び描きだす。作品が貯まったところで銀座の画廊で個展を開いた。そんな母だった。
幼い頃に絵画について母から習ったことがある。そのひとつが、絵は遠くから眺めて、全体の構成をつかむといいということ。幼い僕には少々高度な話だった。ところが僕はそれをきちんと大人になっても覚えていた。親の教育とは凄いものである。そして、もし遠くから眺めることができない場合は、薄目をして眺めなさいともいわれた。当時の僕には「なんのことやら」という感じだったが、母のいうことだからそのまま鵜呑みにした。だから、いまだに絵を見ると薄目をしてしまう。確かに大きな絵でも、全体の構図がつかめたような気になれる。だけど、薄目をしてもしなくても、そんなに違いはないような気がずっとしていた。
母の絵は、線が曖昧ではっきりしていない。ぼんやりとした印象の絵に思える。よくいえば、モネが描くような線なのだ。輪郭がしっかりしていないぶん、抽象度が高くなる。タイトルがあるおかげでそれが何を描いているのかわかるが、もしタイトルがなかったら、何が描かれているのかよくわからない作品もあった。
母が死んでからモネの大規模な展覧会が開催された。睡蓮が何点も集まった。睡蓮は御存知の通り、はっきりとした線は使われていない。ぼんやりとした絵だ。特にものすごく興味があったわけでもなかったが、なんとなくその絵を見に、展覧会会場に行った。会場は混んでいた。人と人の頭のあいだから、緑や青のごちゃっとした線と、ところどころにある睡蓮の花と思われるピンクや黄色を見た。そんな状態だから、遠くから作品の全体を見ることは難しい。絵に近づいたとき、母に習ったことをした。薄目で見たのである。
驚いた。母が僕に薄目で見るように教えてくれたのは、このときのためだったと思った。それまでぼんやりとして、睡蓮のように見える部分も「睡蓮だ」と思って見るから見えるような絵だと思っていた。ところがそこに睡蓮が、はっきりと見えた。さらに驚いたのは、空を映した水面が現れたのだ。それまで感じることのなかった水面が。
人間の認識というものは不思議なもので、一度睡蓮の景色が同定されると、それ以来、薄目をしなくてもさっと空を映した水面に浮かぶ睡蓮が現れる。もうかつての混沌とした緑と青とピンクの絵ではなくなってしまった。