シュリンク

朝、玄関から出ると足裏にクシャッという感触が伝わってきた。足を上げるとカマキリの頭を踏みつぶしていた。羽が風でめくり上がり、無様な姿になったカマキリ。靴の裏にはカマキリの汁がついているのだろう。一ヶ月ほど前に「そういえば最近、カマキリを見てないな」と思っていたのに。せっかく出会ったらその瞬間に殺してしまった。なんともいえない暗澹たる気分。駅に向かい歩きながら「前にカマキリに会ったのはいつだったのか」と思う。数年前に近所の公園で見かけた気がする。でも、はっきりとは覚えていない。はっきりと覚えているのはもう二十年以上前のケニアだ。ロッジのドアに見たことのないほど大きなカマキリがいた。その大きさに驚いたが、ケニアにもカマキリがいるということにも驚いた。そのロッジにはサルがやって来て、油断しているとラウンジのテーブルに置かれた砂糖壺を持って行ってしまった。目の前でサルが砂糖壺を持っていったとき、コックが怒ってすりこぎ棒を投げていた。

駅の入口から階段を降りる。出勤時間なので多くの人々が黙々と階段を降りていた。

幼い頃には東京でもカマキリはどこにでもいた。植え込みに入っていくとどこかにいた。カマキリの卵も探せば見つかった。だからその頃は「カマキリを探そう」とか「バッタを探そう」と遊んでいた。いま東京ではそんなことをしてもちっとも楽しくないだろう。全然見つけられずにきっと疲れるだけだ。そうやって遊んだ幼なじみの顔を思い浮かべる。

改札を通る。自動改札のピッ、ピッという音が音楽のようだといった外人を思い出す。僕たちにとっては当たり前すぎて、鬱陶しいだけの音。日本人は虫の声を音楽のように楽しみ、外人はそれを雑音としか聞かないという本を読んだことがある。それがいまや、外人が自動改札を音楽だといい、日本人は雑音だと思っている。

そこまで考えて混んだ地下鉄に乗った。

どこから来たのか、地下鉄の中にアゲハチョウが入ってきた。いったいどうやって入ってきたのか? 駅の入口から改札を抜け、ホームにおりて乗ってきたのか? こんなところに来てもアゲハチョウにとって何一ついいことはないだろうに。なんで入ってきたんだろう。ドアが締められ、地下鉄は発車する。アゲハチョウは乗っている僕たちの上をヒラヒラと飛んで行く。アゲハチョウはどこまで旅をするのか。アゲハチョウもすでに花を探す能力を失ってしまったのだろうか、こんなところに来るなんて。そう思っていたが、次の駅で車輌から出て行った。無事に駅の外へ出られるのだろうか。

幼い頃チョウはどこにでも飛んでいた。モンシロチョウ、モンキチョウ、アゲハチョウ、クロアゲハが多かった。珍しいチョウを見つけると興奮した。いまは蝶を見かけただけで嬉しくなる。

そう、虫が減ったのだ。少なくとも東京では。カブトムシやクワガタなんて、東京にいまもいるのだろうか? 

もし蜂がいなくなったら農家が困る。受粉は蜂やコガネムシなど、虫に頼っていることが多い。虫によって受粉した作物は形がいいが、人の手によって受粉した作物は形がいびつになるという話を聞いたことがある。本当かどうか疑っている。本当であろうとなかろうと、人がすべて農作物の受粉をしなければならなくなったら大変だろう。そんなことを考えながら目の前の席が空いたので座る。地下鉄が走り出すとしばらくして車内が明るくなる。私鉄につながっているため地下鉄は青空の下を走っていた。太陽の光がまぶしい。

麦わら帽子を被った農夫たちが、しゃがんで筆を持ち、花に受粉させている。緑の畑にたくさんの麦わら帽子。みんな黙々と花に受粉させている。作物を作るためにせっせと受粉させている。ふと思う。虫がいなくなったら野菜や果物以外の植物はどうやって受粉するのだろうと。地球上から緑が急激に減っていくのではないか。残っているのは人間の食べる野菜や果物だけ。人間が必要としない植物は数を減らし絶滅する。

居眠りをしていた。目を覚ますと目の前に、女の子の肩にかけられたリュックサックがあり、ぶら下げられたポケモンが揺れていた。

「人間ばかりが増え、それ以外の動植物はどんどん減っている」

誰が言ったのか、どこで聞いたのか、思い出せない。

人間の数だけが増えていく。人間の食べ物となる生き物だけが存在を許される。人間の居心地だけがよくなっていく。人間のエゴだけが肥大していく。嫌だなぁと思う。そんな社会に誰がしたのだろうかと考える。まったくわからない。

人間の身体のなかに寄生していた生物は先進諸国ではほぼ絶滅したという。生きているのは研究室の中ばかり。ときどき自然な状態で見つかると大騒ぎだ。皮膚に生息していた共生菌まで数を減らしていると言われている。それらがいなくなったせいでアレルギー症状が多発するようになったのではないかと言われるが、証拠はない。証拠を集める人がいない。集めたところでお金にはならない。お金にならない仕事は無駄な仕事だ。

会社に着くと、部下の住田がやってきた。

「部長、例の件ですが」
「柳下のことか?」
「そうです」
「あのあとどうなった?」
「それがどうにも話が平行線で」
「そうか。じゃあ彼も早期退社をお願いするんだな」
「それでいいんですか?」
「それ以外どういう手があるんだ?」
「はい。柳下さんをそうするとなると、彼の部下数十人も」
「やめたい奴はやめさせるんだな。その代わりライバル会社では働けないように手はきっちり打つんだぞ」
「そんなことして柳下さんとその部下たちはどうなるんでしょう?」
「そんなこと知るか。言うことが聞けないんだ、仕方なかろう。この業界で我が社だけが生き残る。あとは全滅。そうすればブルー・オーシャンだ」